渋沢栄一ってどんな人?(2024年から1万円札の顔ですよ。)
どうも、さっさです。
今回は渋沢栄一を解説します。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」で描かれます。主演は吉沢亮。
2024年からは、1万円札の顔にもなります。
話題性は十分。でもぶっちゃけ、「渋沢栄一?誰ですか?」という人、多くないですか。
高校生の時に日本史を選択していれば、1度や2度は見た人もいると思います。ですが、誰もが「ああ、あの人ね」とはなりませんよね。
この記事では、渋沢栄一についてのポイントが全て書いてあります。
知らない人には「こういう人なんだよ」って、ぜひ教えてあげてくださいね。
最初の疑問。「なぜ2024年にもなって、1万円札が今さら渋沢栄一なの?」
結論:ニセ札防止の観点から、これまで作ることができなかったため。
どういうことでしょうか。
お札の人って、振り返れば伊藤博文など、髭(ひげ)がすごい人のイメージありませんか。
これって実は、ニセ札を作りにくくするためだったんですね。
よく見る渋沢栄一の写真は、髭をたくわえていません。
日本初の銀行を作る。
500以上の企業、団体の立ち上げ。
「日本経済の父」といわれる。
実績は十分。
これまで何度もお札の顔になる候補になってきました。
それなのに、なぜこれまでお札の顔にならなかったのか?
髭がなく、偽札が簡単に作られてしまう可能性が高かったからなんですね。
最近になって紫式部や樋口一葉など、女性が採用されました。
髭がなくても偽札を防げる!ということになりました。
令和の時代になってやっと渋沢栄一の出番が来たんですね。
さて、渋沢栄一はどんな人だったのでしょうか?
中学校の歴史の教科書ではどうなってるの?
富岡製糸場をはじめ、多くの企業を設立し、経済の発展に力をつくしました。
東京書籍の「新しい社会歴史」より
この文面が、本文ではなく、ふちにある写真の横に書かれています。
うーん、これではピンと来ないかもしれませんね。
定期テストではよく出題されます。
高校で日本史を選択したら大体買う「日本史用語集」ではどうなってるの?
渋沢栄一 1840〜1931
「日本史用語集」より
実業家。埼玉県の豪農出身。
一橋家・幕府に仕え、1867年欧州視察。
明治政府の大蔵省に出仕、税制・幣制改革にあたる。
退官後、第一国立銀行・大阪紡績会社創立など実業界に活躍。
教育・社会事業にも尽力。
江戸時代の生まれで、明治・大正・昭和と生きたんですね。
この時期の出来事というと、ペリーの来航に明治維新。
第一次世界大戦などの戦争に関東大震災、世界恐慌…
この人生、濃すぎませんか(笑)
渋沢栄一ってどんな人?
どこで育ったの?
渋沢家は現在の埼玉県深谷市にありました。
当時は血洗島村(ちあらいじまむら)でした。
土質が稲作に不向きで、蚕から生糸を取る養蚕が主に行われていました。
また、衣類を藍色に染めるための「藍作り」もこの土地の大きな収入源になっていました。
藍の葉を育てるだけでなく、それを藍玉に加工するなどして、高く売りました。
それらはこの辺りの領主である、岡部藩安部家の家計を賄うほどに設けるようになりました。
ですから渋沢一族は、百姓でありながら名字帯刀が許されていました。
栄一が「藍」の買い付けに行くこともありました。
父親の市郎右衛門(いちろうえもん)をずっと見てきた栄一。
10代で既に、藍を安く買い叩くスキルを身につけていました。
これだ、と思ったことは、何でものめり込むタイプ。
「家業のことをもっと考えてくれないか」
落ち着かない栄一を、市郎右衛門は心配していました。
その後の経緯は?
栄一の年齢と主な出来事はこんな感じ。
- 21歳 江戸に出て、勤皇志士と交流。
- 23歳 横浜焼き討ちを計画する。
- 24歳 一橋慶喜の家臣になる。
- 26歳 慶喜が征夷大将軍になり、栄一は幕臣になる。
- 27歳 パリ万博の使節団の一員になる。
- 29歳〜33歳 大蔵省に出仕
- 76歳 第一銀行の頭取を辞め、実業家を引退。
- 91歳 直腸がんで死去。
20代前半では、江戸幕府を倒そうと考えていた時期があったんですね。
その後、徳川慶喜の家臣となります。
明治政府では大蔵省で手腕を発揮して、退官後は500以上の企業や団体の立ち上げに関わります。
忙しい人生を送っていたんですね。
33歳で明治政府、大蔵省を去る
栄一は日本で初めての大規模製糸工場を群馬に建設するのに一役買いました。
それが富岡製糸場です。
世界遺産にもなっていますね。
3.3尺を1メートルとする!とメートル法を採用するなど、物の長さや重さを統一しました。
また、郵便制度や貨幣制度も整えました。
しかし。
政府の各省では、予算が次々に膨らんで行きました。
「侍出身の連中は、どこまでもお金のことが分かっていない」
政府のやり方に失望した栄一は、大蔵省を辞職しました。
その後の目覚ましい活動をたどる
栄一は第一国立銀行を設立しました。
資本主義は誰もが自由にお金を使って、経済活動をすることを言いますが、銀行こそ、まさに資本主義の命だと考えていました。
アメリカを手本に、株式交換所(現在の東京証券取引所)を設立します。
また栄一は、保険事業もやりたいと考えました。
荷物を載せていた船が沈没したら荷物はパーです。
そのために、みんなでお金を出し合って、万一に備えるというものでした。
そして、日本初の保険会社、東京海上保険(現在の東京海上日動)が設立されます。
「紙」の量産にも取り組みます。
紙幣や雑誌、新聞などにも使われます。
当時の日本には、大量に紙を作る技術がなかったので、最初は外国の機械を導入し、外国の技師を招いての創業でした。
それが現在の王子製紙にあたります。
会社や工場を作れば、当然建物が必要です。
西洋建築の知識と技術を持った清水組(現在の清水建設)にも、栄一は相談役として指導や助言を行いました。
鉄道にも関わっています。
現在の東日本旅客鉄道です。
経済の発展のためには、一度にたくさんの人や物を運ばなければなりません。
そのための鉄道でした。
運ぶのは陸だけではなく、水路も必要です。
栄一は共同運輸会社を設立します。
鉄道や水路で人が移動すれば、宿泊施設が必要になります。
帝国ホテルは外国のお客様をもてなすために建てられました。
もてなすためにはビールも必要です。
現在のアサヒ、サッポロ、麒麟にあたる会社を設立しました。
教育や福祉にも尽力しています。
現在の一橋大学、日本女子大学、聖路加国際病院などにも援助をしました。
63歳の時、欧米への旅行の途中、アメリカではルーズベルト大統領とも会見しています。
アメリカにとっても栄一は重要な人物だったんですね。
関東大震災後の復興のために、帝都復興審議会の委員などを務めました。
栄一がうれしかったのは、アメリカの友達からたくさんの支援が届いたことです。
これらの民間外交が評価され、1926年、1927年と栄一はノーベル平和賞の候補に2回推薦されています。
アメリカからは1万体以上の人形が届き、日本からは市松人形が送られました。
栄一の根底にあった、道徳経済合一説
栄一は、人の役に立つことと、経済を発展させることを両立させようとする「道徳経済合一説」を重んじていました。
ですからビジネスだけではなく、教育や福祉にも熱心に取り組んだんですね。
まとめ
いかがでしたか?
渋沢栄一のことがこれだけ分かれば、バッチリです。
知らない人に教えてあげてくださいね。
参考文献↓